学生服の成り立ち

 今回は、わかっているようでわかっていない学生服が生まれた歴史と背景を販売員として持っておいてほしい簡単な知識としてまとめてみます。

 学生服という単語を使いますが実は対外的には①制服 ②標準服 という2種類を明確に使い分けています。

①制 服:ある集団に属する人が着る、色や型の定められた服装

②標準服:ある集団に属する人が着用することが望ましいとされる、色や形の定められた服装

 と定義できます。つまり、その学校がこれを着ることを条件にする場合と条件にできない場合に分けられます。おおざっぱに言うと公立中学はその地域に住む人全員が入る意思があれば入れる為、そこに強制はできないという考えで標準服という呼び名を使います。  

 それに対して公立であっても高校は自由意志で尚且つ受験して入る為、入学希望者に前もって提示でき、希望したということになるので制服という単語を使用することができます。(標準服としている高校もあります。)パンフレットなど正式な書類では厳密に使い分けますが、接客応対の場では二つを統合し学生服という単語を使用してください。

 また、さまざまあるユニフォームのうち、いわゆる一般の、警察や駅員さんなどのユニフォームと学生服と区別する要因は

①私費調達(支給されるものではなく自分で買う)

②着用期間が決まっている(卒業したら着用しない)

となります。

 では、その学生服がどのようにしてできたかをお話しします。

 今回調べるにあたってネットなどの情報のほかに、お茶の水大学准教授で学生服の歴史の研究をされておられる難波知子准教授のご著書「学校制服の文化史」(創元社,2012)と「近代日本学校制服図録」(同、2016)を参考にさせていただきました。興味のある方は分厚い本ですがお貸しいたします。

 学生服の成立は男子と女子で別になります。男子の学生服の制定は諸説ありますが、明治19年に公立の帝国大学(現在の東京大学)が詰襟の学生服と学生帽を制定したのが始まりといわれます(明治12年に制定された学習院のホック型の詰襟とする説もあります。いずれも渡辺さんという同じ人が担当しました)。

 女子の学生服の成立は少し遅れます。明治32年に高等女学校令という勅令がだされ、全国に高等女学校ができはじめました。そこで袴を着用することが推奨されました。まだこの段階では定義にある学生服とは言えません。その後、地域に学校が少ないうちは袴をはいた女性は女学生と認識できましたが、学校が増えてきたときに、先生が校外で指導するにあたり自校の生徒かどうか見極めるために、徽章(校章)をつけ始めたのが学校制服の始まりといえます。(それ以前はサラリーマンはスーツみたいな感じで袴=女学生ではありましたが、学校毎に個別に判別する機能はありませんでした。)

 ではなぜこの袴が導入されたのかというと、元になった考え方が当時の和服と比べて運動のしやすさでした。当初は男子用の袴を着用していたようですが、女子専用の袴が考案され色も茶色や紫など華やかな色になっていきました。

 さらに女子の体育の重要性から運動が学校教育の中で盛んにおこなわれるようになり、西洋式の体操着(洋服)の導入がなされ、その流れで西洋式の制服(洋服)へと徐々に移っていきました。動きやすさの順で行ったら和服(着物)→袴→スカート(洋服)の順であることがわかると思います。それに合わせる上衣としては一体型のワンピース型、セーラー型など様々あったようで昭和に入りセーラー型が主流になっていったようです。

 その後、満州事変などの戦時体制下の影響から物資節約を目的に県単位の統一がされることが増え、その時に縫製の容易さ、生地の節約と当時女子に人気があったセーラー型に統一されることが多かったようです。さらに時代が進み昭和16年にはさらなる物資節約から全国統一でへちま襟型で素材もスフという木材繊維の混紡が義務付けられ、下衣もスカートからモンペの着用になりました。

 終戦後は引き続き物資欠乏や貧富の差が激しい事から安価で丈夫な詰襟やセーラー服(へちま襟は人気がない)などを経て、高度経済成長期以降、各学校の特色を生かした別注型へ移行、また個性を尊重する観点から制服廃止などの方向へ進んできています。このあおりを受けて、突然の制服モデルチェンジや廃止で我々販売店も右往左往する日々を送っているのであります。この現在の制服変更の動向についてはいつかまたお伝えしたいと思います。

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